「我が家の庭のつくし」
「チューリップの芽」
「チューリップの芽」
鶯の鳴き声が聞こえてきました。チューリップが芽をだしてます。さらに、我が家の庭に
つくしが群生しております。春がやってきました。
我が家の春はまずつくし採りに出かけることから始まります。しかし、2年程前から
スギナの種がどこからともなく飛んできて、庭に生えるようになりました。
今年はまず第1回目の収穫でボール3杯分採れました。まだまだ、芽がでております。
となりの美代ちゃんにおすそ分けしました。お返しにゆず大根を持ってきてくれました。
美代ちゃん一家は天理教の「陽気暮らし」をそのまま地でいっている大らかな一家です。
残念なことに美代ちゃんのご主人は2年間の白血病の闘病生活を終え、最近旅立って
いかれました。病院と自宅をいったりきたりされてましたが、草刈したり、庭いじりしたり、
とても良き生活を送っておられました。
「tomokoさん、私の性格はすぐに人と親しくなって、おいでおいでの人でしょう。
世の中、いろんな人がいるよね。主人が居たから安心してどんどん人間関係広げてたけど、
ちょっと一呼吸おいて人と付き合っていこうと思うのよ。今周りに居る人達だけでも充分
だと思うの。」
「私もちょっと・・。と思うことが2日前にあったのよ。昔の友人で、今は1人は松山
1人は北海道にいるんだけど、北海道の友人がこちらに遊びにきたらしいの。それで、
突然携帯電話が鳴ったわけ。『今、そちらの家に向かってるんだけど、場所が判らない。
挨拶に寄りたいって』北海道の友人とは年賀状のやりとり、松山の友人とは全くコンタクトなし。
7~8年会ってないのよ。職場に居たこともあり、丁重にお断りしました。アポなしっていうのは
どうかと思う。私も過去の友人とはいえ、もう人間関係整理せんといかんと思ってたところ」
50歳ともなれば「林住期」いわゆる「天命を知る時期」に、他人に惑わされたり、時間を
とられたりするのは嫌なのです。人間関係に関してやまねこ夫はこう語っておりました。
「シニア・レポート」byやまねこ 2013.11.29 はい、どっと・もーにんぐ(=^o^=)やまねこ庵でおます。 やまねこも齢五十数歳を過ぎ、人生の限界を意識する世代となり、「死に至る病」を 患い、林住期となりましたので時折、「折にふれて」シニア・ライフ・レポートを書く ことにしました。 やまねこシニアのシュールな遁世論(リトリート・アイデア)ということになるかなと思います。 若い世代に向けてということでもなく、同世代に向けてということでもなく シンプルに「長雨せしまに」気づいた徒然の草々のことに過ぎません。 昔、吉田兼好という人も『徒然草』というものを書いていますね。中世の賢人の日記が 私たちに今も訴えるところがあるというのも不思議です。 さて、第一話は人間関係論です。 やまねこは、常々「人間関係はその人の人生を語る」と思っています。 良きにしろ悪しきにしろ人間関係はその人の人生のカルマの表現であるということです。 「こんなステキな人とつきあっている。こんなトンデモ人間が私の周りにいる。」と多くの人が 思うのでしょうが、いずれも「私の人間関係」であることに変わりはありません。 「ステキな人」と「トンデモナイ人」が時折入れ替わるのが人生というものかもしれませんね。 やまねこは人生にブルドーザーというものがあり、すべての人間関係を整地することが できたとしたら、多くの人の人間関係はフラットか、少し下がっているか、少し上がっているか くらいの差しかないと思っています。要は大差ない人たちとつきあうのが社会生活なのです。 私もまたそのひとりにすぎません。 整地とは? 「1 建築のため、土地をならし地固めをすること。地ならし。「―して家を建てる」 2 作物の種まきや植え付けのため、土を耕し雑草などを除去して土壌を整えること。」 整地作業は、農業でも建築業でも事にとりかかるはじめにしますね。 しかし、人間関係の整地作業は人生においては「林住期」において明らかになるのです。 多くの人間関係は、プラスもマイナスも大差ないことを納得できれば、ご都合主義や利害得失 に一喜一憂する必要はありません。折に触れて、良き人間関係をめざしつつも人間観察をひたすら 続ければよいのです。その総体は自らのカルマが形成してくれるでしょう。 大きなプラスということも他人からは来ませんし、大きなマイナスということもありません。 わたしたちが他人との関係に期待することの多くは幻想でありむしろ「自分との関係を変化させる」 ことが人生を変えてゆくのです。 他人はわたしを変えてはくれません。わたしこそが私を変えてゆく重要人物なのです。 わたしたちは、過去のカルマに従う側面よりも未来に向けて新たな創造行為を成してゆく存在です。 希望の種をまくことを通してより良き人間関係を営み社会という失われた「からだ」を回復して ゆくということなのでしょう。
なんだか最後、わかりにくい表現になってましたが、彼が良く言っていたのは「仲間作り」。
相互扶助で楽しく暮らせる仲間。同じテーマを持ち、励まし合いながら道を歩める仲間。
社会生活上必要な人間関係ではなく、自ら培っていく関係性は自らのカルマが形成していく。
とうとう私も人間関係の整地にとりかかる時期に入ったようです。