はい、どっと・ちゅーにんぐ(=^o^=)やまねこ堂でございます。 最近、「心のステータス」ということを考えます。自立と依存、独立性と共存性 孤独と孤立の違い、未成熟と成熟、成長の方向性などなど、私たちの精神環境について 考える機会が多いのです。これも寄る年波のせいかな。 先日のトランス・パーソナル心理学の吉福伸逸さんの「ドラゴン・マザー論」があります。 日本社会の過剰介入の問題です。 「ドラゴンの母」の考えている世界と、真の世界は異なります。 逆にドラゴンの母からの過剰介入を受けた子供が、「母親からの過剰介入のおかげで自分の人生がめちゃくちゃになった」という信念を持った場合、「母からしつこいコントロールを受け、私は傷つき無力になった。従って、私が学校にも行けず、仕事にも就けず、友達もできないのは、全て母親のせいだ。私は、見えない虐待の被害者だ」という世界観を持つかもしれません。その世界観によって、全てを判断しますから、彼らは、自分ができないことの理由付けとして、常に母親を持ち出すでしょう。これは、真実ではありません。 「ドラゴンの母」や「ドラゴンの母に過剰介入された子供」だけではなく、実は、ほとんどの人が、真の世界とは異なる世界観を持つことがあります。 「私は、人から受け入れられない」という信念を持っている人は、「みんなが私を嫌っており、私は社会でうまく生活できない人間だ」という世界観を持つかもしれません。「私は、よき人にならなければならない」という信念を持っている人は、「人からの依頼を断ると人から嫌われる」という世界観を持つかもしれません。そうした歪んだ信念に基づく世界観の事を、吉福さんは「ドラマ」ないしは、「メロドラマ」と呼びました。 人は、いつか「メロドラマ」から脱しなければなりません。「メロドラマ」に耽溺している間は、精神的な成長は滞っていると言ってよいでしょう。」 そう。ひとはいつか「メロドラマを脱出しなければいけない」と思うのです。 「青信号、みんなで渡ればこわくない。」日本人は、相互に過剰な介入をしあいながら 自分のメロドラマにふけっているのかもしれないとも思うのです。 「わたしは孤立した人間だ。」「わたしは何かのせいで、誰かのせいでうまくいかない」 「わたしは良き人、自己犠牲の人なのに世間はわたしを受け入れない。」 「わが子なのだから、わたしの願望を満たしてくれるはず。」 「会社に忠実に働いているのに十分評価してくれない。」 「わたしの人生は思い通りでないのは、家庭環境のせいだ。」 これらは、メロドラマの中でのセルフ・イメージであって真の世界のありようとは異なっています。 家庭でも会社でも社会でも「過剰介入」の問題があるような気がします。 母子関係、ソーシャルな人間関係、介護などのケアの現場でも過剰になりすぎて、 「本来のあり方」が見えなくなりがちなのではないでしょうか。 そこには、わたしたち日本人独特の「日常的不安」「おびえ」「仮想的な災い」とともに ありのままの現実に直面することを避ける仕組みが働いているような気がするのです。 一度、「孤独でもいいじゃないの。」「うまくいかないのが人生」「すべて自己選択、自由科目」 と考えて、「私の問題」を洗濯物のように物干しざおに干してみればいい。 孤独も楽しく、うまくいかない日常もやりがいのあるパズルになり、人間関係はライフ・デッサン に彩りを添えてくれると思うこともできます。 人生のメロドラマを抜け出して、わたしの「道場に座る」のもいいのではないかな。
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心のステータス
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