(花巻 宮沢賢治記念館)
ここ最近、「コトバ」について考えています。
日常何気なく使っておりますが。コトバは人を助ける良薬にもなれば、人を傷つける
ナイフにもなります。
歌を聴いてると、ジ~ンと心に響く歌詞にそのフレーズが心の中でリフレインしたり
映画のセリフでハッとさせられたりします。
また、「今の言葉ぐさっときた。」なんてことも日常よくあることです。
私はつい口がつるりんこと滑ってしまい、やまねこ夫の逆鱗に触れておりました。
「もうしゃべるな!沈黙せい!」何度怒られたことか・・・。
真言密教では、言霊というくらいコトバを大事にするのです。
確かに言葉の持つ力-創造にもなり破壊にもなるもの-ですから、不用意に使うものでも
ないでしょう。しかし、コミュニケーションとしてコトバは必要です。
経営術として、人に動いてもらうコトバを言っているのではありません。
真のコトバとは?どこから生まれてくるのか?私はそれを語ることができるのか?
そんなことを考えていると1つの記事に目が留まりました。
2008.2.19 byやまねこ 健全に暮らすということが難しい世の中なのかな?と思います。 なにやら社会は、複雑系? 複雑なことを複雑に考えるととなんだかインテレクチュアルな感じで いいのかなあとも、思うのですが・・・残念、天然のわたしにはその頭脳はありません。 複雑なことも単純素朴にやりすごすほうが、いいのかもしれません。 昔、信州にある神父さんがいて農園修道院を営んでいました。何度か訪れ、神父さんの講話に 耳を傾けました。 彼は、『言葉には2種類あります。モノことばとコト言葉です。わたしたちは、本来の コト言葉を失い、モノ言葉に埋もれているのです。』と語ります。日々、瞑想と祈りと農作業に 専念する神父さんなのですが、最近彼の言葉を思い出します。もう、25年くらい前のことなので 記憶の片隅ではあるのですが、確かにそうだなあと思えるのです。 わたしたちは、物語的な言葉・・流れのなかでつながりひとつのストーリーを生んでゆくような 言葉を失い、点在する散文的なオブジェクトに囲まれ、言葉すらもオブェになっているのかもしれ ません。 陳列される数々の言葉、イメージ、出来事、人、情報・・・そんな中で全体としてのつながりある 「わたしという物語」を無くしているのかもしれません。おそらく神父さんはその物語性を 「コト言葉」という風に呼んでみせたのでしょう。 『人間の根底にあるものは、だだ、ただ、静かな光なんですよ。その光を感じていられたら、 言葉はひとつひとつ物語りになるんです』・・・・これを宗教者の特別な言葉と思うとしたら、 それこそがコト言葉をモノ言葉に置き換えたことになるのでしょうか? 人間の生活は、さほど立場・人・心境によって大きくことなるものではなく、もっとシンプルな ものに根ざしているのかもしれません。 自分が使っているこ言葉の物語に、少し耳を傾けたほうがいいかもしれませんね(^o^)/